「子どものため」という言葉への違和感

パンダ返還のニュースをめぐって、「子どもがかわいそうだ」「子どもの夢を奪った」という声を多く目にしました。
そのたびに、私は少し違和感を感じます。その「子ども」は、本当にそう感じているのだろうか、と。
大人が想像している子ども像と、実際の子どもの受け止め方には、思っている以上に差があるのではないか。
そう思い、我が家でもこの話題を8歳小2の息子にふってみました。
子どもの反応は、驚くほど冷静でした。
パンダが中国に返還されることを伝えると、息子はまずこう聞いてきました。
「なんで返さないといけないの?」
「かわいいから、いる間に見てみたいな~」
ここまでは、とても子供らしい自然な反応だと思います。
そこで、パンダは中国から借りていて、返す約束があることを説明しました。
すると少し考えてから、息子はこう言ったのです。
「それなら、返すのは仕方ないよね」
そこには、「なんでなの?!」という怒りも、誰かを責める言葉もありませんでした。
感情と理由を、きちんと分けて受け止めているように見えました。
「じゃあ、代わりでいいじゃん」という発想
さらに息子は続けました。
「かわりに白と黒の動物を入れたらいいんじゃない?」
「牛さんとかさ~。かわいいし」
思わず笑ってしまったいましたが、同時に、とても納得感も感じました。
子どもにとってパンダは、
唯一無二の象徴でも、失ったら立ち直れない存在でもない、「かわいい動物の一つ」にすぎなかった
のです。
大人が思うほど、子どもは「パンダでなければならない」とは考えていないのではないでしょうか。
むしろ大人の方が、パンダの価値を絶対視して代替不可能な宝物化してしまっているような気がしました。
展示の価値を問い直す一言
そして、いちばん考えさせられたのがこの言葉でした。
「パンダ見に行っても、たくさん並んで1分しか見られないなら、ちょっと嫌だなあ」
「それなら、他の動物をゆっくり見たいかな」
これは、今のパンダ展示のあり方を、とても率直に言い表していると思います。
長時間並び、一瞬だけ見て、押し出される
その体験から、教育者や生物学者が想定するような学びが得られるでしょうか。それならば他の動物をゆっくり見て触れ合って、野生の状態や生態を学ぶ方が教育効果はあるのではないでしょうか。
パンダでなくても、他の動物からも同じように動物や自然環境のことを学べるはずです。パンダでなければならない理由は、ないのではないでしょうか。
教育効果は「見せた量」では測れない
動物園はよく「生きた教材」と言われます。現代は動画や図鑑で簡単にさまざまな動物を見られますが、やはり動物園で本物の生の動物に触れるということは、理解を格上げしますし大切だと思います。
でも、来場者数が、そのまま教育効果を示すわけではありません。
むしろ、
- なぜその動物がここにいるのか
- どこから来たのか
- なぜいなくなったのか
を考える時間のほうが、学びとしては深いのではないでしょうか。
パンダが返還されたことで、「どうして?」という問いが生まれました。
その問いの理由を、大人と子どもが一緒に考えること自体が、パンダを見るよりもすでに教育になっている気がしてなりません。
子どもは「切り替えが早い」のではない
よく「子どもは切り替えが早い」と言われます。
けれど、今回のやり取りを通して感じたのは、切り替えが早いというより、そもそも執着が薄いのではないか、ということでした。
- 象徴
- 希少性
- 歴史的意味
- 大人の思い出補正
大人と違って、そうしたものを背負っていないから、「じゃあ次でいい」と自然に言えるのでは。
今の子どもたちは、大人世代よりもずっと、かわいいもの・楽しいものに囲まれて育っています。
一つの存在に、「これがなくなったら終わり」という重さを、大人ほど感じていません。
関西では、少し温度が違った
そういえば、関西ではひと足先にパンダがいなくなっていました。
白浜から中国へ返還されたときも、関東ほどの騒ぎにはなっていなかったように思います。
私は関西住まいですが、周りの反応を見ていても、
「借りもんやし」
「返す時期やったんやろ」
「次、何するか考えたらええやん」「ごちゃごちゃ言うなら、もうええわ」
といった、どこか淡々とした反応が多かったです。
決して冷たいわけでも、無関心なわけでもありません。
ただ、最初から「永遠にいる前提」で考えていなかったのだと思います。
これは、関西という土地の商売気質も、少なからず影響しているのかもしれません。
「失った」出来事は、学びの入口になる
教育は、何かを与え続けることで生まれるとは限らない気がします。
むしろ、
当たり前だと思っていたものがなくなったそれはなぜか?
と考えるときに、人は深く理解しようとするのではないでしょうか。
パンダがいなくなったことで、
- 国と国の関係
- 約束や契約
- 生き物の本来の場所
といった話題に、自然と触れることができます。これは、展示され続けている状態では起きにくい思考強化であり、学びではないでしょうか。
「返したあとに会いに行く」という選択

最近、白浜アドベンチャーワールドから中国に返還されたパンダたちに、現地まで会いに行くツアーがあると知りました。
正直に言って、それを聞いたとき、「これこそが本当のパンダ愛ではないか」と思いました。
日本に置き続けることが愛なのではなく、本来いる場所へ会いに行くという選択。
そこには、
- 所有しない
- 囲い込まない
- 象徴として消費しない
という成熟した姿勢が見受けられます。
「本当の日中友好」は、象徴ではなく体験から始まる
日本にパンダがいることを「友好の証」と言い続けるよりも、
- 現地に行き
- 中国という国を見て
- 人と話し
- その環境で暮らすパンダを見る
その体験のほうが、よほど多くのことを教えてくれるし、本物の友好につながります。
海外にいる日本人に会ったからといって、日本という国や文化のすべてが分かるわけではないですよね。実際に日本を訪れ、空気を感じてこそ、理解は深まり本物の有効につながるはずです。
それと同じように、パンダもまた、本来の場所で見てこそ本質が分かる存在なのではないでしょうか。
象徴に頼らない関係へ
パンダは本来、友好関係の「入口」であり、会話のきっかけにすぎなかったはずです。
それを、
- パンダがいる=友好
- パンダがいない=断絶
と単純化してしまうと、議論はどうしても幼くなってしまいます。
パンダ=日米友好の象徴は分かりやすい。けれど、依存すると、自分で考える力を手放してしまう気がします。
子どもは、もう次を見ている
「子どものために」と怒る大人より、「なぜ?」と考える子どものほうが、よほど現実を見ているように感じます。
子どもは、
- 理由が分かれば納得し
- 代替案を見つけ
- 次の楽しみへ進む
その柔らかさを持ち合わせています。大人の側が見失って考えが凝り固まってしまっているのかもしれません。
パンダがいなくなったことで失われたものより、考えるきっかけが生まれたことのほうが、ずっと大きな価値なのではないでしょうか。
教育は、「見せ続けること」ではなく、「問いが生まれること」から始まる気がします。
