上野動物園のパンダ返還が決まって以降、「日本からパンダがいなくなる」「外交の失敗だ」「子どもがかわいそうだ」そんな感情的な言葉が、ニュースやSNSの中でよく見られるようになりました。
正直に言うと、私はその騒ぎを見て、少し距離を置きたくなりました。そして同時に、こう思いました。
パンダという生き物に、私たちはあまりに多くの意味を背負わせすぎていないだろうか。
パンダは「貸与」であり、「象徴」ではない
まず大前提として、日本のパンダはすべて中国からの貸与です。
所有権は中国にあり、契約期間があり、原則は期間満了で返還されることは最初から決まっています。
つまり今回の返還は、
誰かが突然決めた制裁でも、政治家が一存で追い出した結果でもなく制度上、最初から想定されていた出来事。
前倒しになったといっても、検疫や受け入れ態勢の問題であり、一か月程度のことであり、大幅にズレたわけではありません。
それにもかかわらず、
「奪われた」「失った」「誰が悪い」
という物語に変換されてしまった瞬間、
議論は生き物の話ではなく、感情と政治の舞台に移ってしまったように思えます。
「守る」とは、手元に置き続けることなのか
ここで一度、立ち止まって考えてみたいと思います。
パンダを守るとは、どういうことなのでしょうか。
- ずっと日本にいさせること?
- 返還に文句を言うこと?
- 象徴として掲げ続けること?
私は必ずしもそうは思いません。
パンダは、
かわいくて、希少で、政治的にも都合のいい存在。
だからこそ、
- 友好の象徴
- 平和の証
- 教育の切り札
として、次々に役割を与えられてきました。
でもそれは、守ることというより、使い続けることに近くなってはいないでしょうか。
日本にいるパンダは、
例えるなら海外で暮らす日本人のような存在だと思います。
海外に日本人が住んでいるからといって、
その国で日本という文化や空気のすべてが再現されるわけではないですよね。
寺社も同じです。
海外に日本の寺院が建てられていても、それは「日本そのもの」ではないです。
日本の風土や歴史、空気の中にあってこそ、本来の意味を持つのではないでしょうか。
パンダもまた、同じではないでしょうか。
日本で大切に飼育されていても、それは「本来の場所」の代わりにはなりません。
生き物を政治の舞台に立たせ続ける違和感
「軍拡ではなく友好を」
「パンダは日中友好の証だ」
その主張自体を、否定したいわけではありません。個人の考えは人それぞれです。
ただ、ひとつ引っかかるのです。
なぜ、友好や平和という人間同士の問題を、わずか数頭の動物に背負わせ続ける必要があるのか?
しかもパンダ外交の歴史は、せいぜいこの50年ほどのものです。
それを両国ともに「未来永劫の象徴」として固定化するのは、歴史的にも無理があるように感じます。
政治の問題は、人間が人間の言葉と行動で向き合うべきです。
生き物を代理に立たせることで、かえって責任の所在がぼやけてしまい、議論の論点がずれるように思えてなりません。
パンダを日中友好の温度計にするのはどうなのかな、と思います。
白浜が示した「依存しない」という選択
関西では、ひと足先にパンダが返還されました。
けれど、関東ほどの騒ぎにはなりませんでした。
白浜のアドベンチャーワールドは、
- パンダを愛し
- パンダで成功し
- 経済的な恩恵も受けてきた
それでも、パンダに依存し続けない道を選んだのです。
これは、簡単な決断ではなかったはずです。
「かわいい」「集客できる」「誇らしい」
それらをすべて分かった上で、舞台から下ろす判断をしました。
私は、この選択をとても誠実だと感じました。
それはパンダを手放したのではなく、
パンダに背負わせていた役割を手放したのだと思うからです。
象徴から下ろすことは、冷たさではない
「いなくなって寂しい」
「もう見られないのは残念」
その感情は自然でしょう。私もパンダに簡単に会いにいけなくなるのは寂しいです。
でも、「感情と、パンダ返還が全か悪かの判断は分けたほうがいい」とも思います。
守るとは、必ずしも手元に置き続けることではありません。
むしろ、
- 政治の象徴にされ
- 世論の道具にされ
- 感情の受け皿にされる
その構造から一度パンダを外すことは、
生き物を「尊厳のある生き物」として、見つめ直す行為でもあるのではないでしょうか。
まとめ:いちばん静かな守り方
パンダ返還は、失敗ではない。
少なくとも私はそう思います。
それは、平和を否定したからでも、友好を軽視したからでもなく
友好や平和を、生き物に肩代わりさせない場所へ戻す選択だったのではないでしょうか。
パンダを愛しているからこそ、
政治や感情の舞台から一度下ろす。
それは逃げでも、冷たさでもありません。
いちばん静かで、成熟した守り方ではないかと思います。
