はじめに:奈良公園の鹿を見ながら考えたこと
奈良公園には、日常の中でもふっと立ち止まらされる瞬間があります。先日、木陰でのんびりと休む鹿たちを眺めていて、ふと「人間の自然な生き方」について考える機会がありました。
鹿は、ただそこにいるだけなのに、不思議と落ち着きを感じさせます。危険か安全か、空腹か満腹か。生きるうえで必要最低限の判断だけで、毎日を過ごしているように見えます。
その姿はまるで、「自然と調和した生き物の在り方」を体現しているよう。
ところが人間はそうはいきません。感じた後、すぐ考えてしまう。必要以上に分析し、未来を予測し、なぜこうなったのかを探ってしまう。
この「考えすぎる癖」と「自然に生きる感性」の違いは、実は日常生活のあちこちに現れています。
奈良公園の鹿と、大多数の人の生き方の関係
鹿を見て感じた「自然な生物のあり方」。実はこれ、多くの人の日常にも当てはまるのではないかと感じます。
大多数の人は、
- 今の気分で決める
- 怒ってもすぐ忘れる
- 深く意味を求めない
- 失敗してもまた次の日も同じことをすることがある
この「感じる → 行動する」のサイクルが自然にできている。最近しきりに言われている「今を生きる」、ということができている。
つまり、
人間の「本来のOS」は鹿に近い。必要以上に考えすぎないほうが自然。
ということ。
一方、私のように「意味 → 構造 →因果 →未来」を考える人は、日常のどんな場面でも考えすぎてしまいがち。これは脳の特性であり、総人口に対しては、わりと少数派の傾向です。
考えすぎて疲れる人が、生きづらさを感じやすい理由
考えすぎてしまう人に共通しているのは、
- 物事に意味を見出したい
- 行動の背景を理解したい
- パターンを読みたい
- 未来のリスクを予測したい
- 「なぜ」 を放置できない
という性質。
これ自体は悪いことでも欠点でもなく、むしろ仕事や創作の場では大きな強みになることもあります。
しかし日常生活では、「自然に生きる人」との認知差がストレスになる。
些細なことでも、「なぜ?」が止まらない。
相手は気にしていないのに自分だけが疲れてしまう。
このギャップこそ、「考えすぎる人が生きづらさを抱える大きな原因」 のひとつです。
鹿のように生きる人の「自然な美しさ」
奈良公園の鹿を眺めていて思ったのは、
「自然に生きる人は、それだけで美しいのでは」
ということでした。
深く考えない人が浅いわけではなく、それは「元の人間のかたち」に近い生き方。
鹿のようなシンプルさは、本人が思っている以上に調和的な今を生きるという生き方なのかもしれません。
まとめ:考えすぎる人は「自然さ」を取り戻すヒントとして
今回の気づきは、奈良公園の鹿がくれた大切なヒントでした。
- 多くの人は「感じる → 行動する」の自然な生き方
- 考えすぎる人は「感じる→考える → 行動する」の思考型
- どちらが正しいではなく、ただ「仕様が違う」だけ
この「仕様の違い」を理解するだけで、身近な人とのズレが少し楽になります。
特に、「なぜ理解できないの?」ではなく、「仕様が違うだけ」と捉えられると、人間関係のストレスが減ります。
その違いの裏には、人の生き方の自然さと、脳の仕様の違いが隠れているのかもしれませんね。
